ごきげんよう、エバンジェリストの片岡ひろ子です。
現世利益系スピリチュアルの蔓延る浮世とは一線を画した本質をお届けして参ります。
無料コンテンツはこちらからご利用いただけます💕
ここ数日かけて再読していたこの本から、ピンときたところを引用してお届けしたいと思います。
あなた自身も、大勢の人々のように、パートナーと問題を抱えていて、相手の言動に怒りを抱いていますか?
もしも、そうならば、あなたは「相手は別の行動をとることができた」と、信じていることになります。わたしたちにしてみれば、いつも相手が選択肢を持っているかのように思えますが、それは単なる錯覚にすぎません。パターン化した思考が人生を動かしているかぎり、その人は「思考そのもの」なのです。その人に選択肢はありません。その人は、「ここ」にさえ在ないのですから、選択肢など、持っているはずがありません。
思考と一つになっているかぎり、機能不全は免れません。程度の差こそあれ、ほとんど誰もが、この「病」をわずらっています。この事実に気づいた瞬間、人に対する怒りは消え去ります。どうして、誰かの「病」に、腹をたてることができるでしょうか。「病」に対して抱くのふさわしい唯一の心情は、「憐れみ」なのではありませんか?
超シンプルなさとり方 エックハルト トールp186より引用
これ読んだ時、自分が持ち続けてきた観念に気づけたのですよ。
そう、私、無自覚に信じてた。
「相手は別の行動をとることができた。」
って。
それゆえ、つまらないことに抵抗を感じてたんだと目の前が開けました。
散々、観念を観察してきてもなお、拒否抵抗が出る。
そして、それはその裏に執着している観念があるからなのですよ。
今朝もね、イラっとしたんですよ。
シンクに洗い物が置きっ放しになっていることに。
ただ置きっ放しなんじゃなくて、置いてあった食器を脇にどかして何かそこで作業をした奴がいる。
で、ふと見るとジョージは自分のコーヒーカップだけそこから取り出したようで、そのカップでコーヒーを飲んでいる。。。
で、もうイラっとしちゃったことは起きたことなので仕方ない。
自分のその感情とともにありました。
その上で、こういうの毎度のことなので、口に出してみたのです。
「こういうのにイラっとするんだよねー。」と。
で、ちょっとジョージと言葉を交わしました。
シンクの食器を避けたのはジョージじゃない。
とりあえず、コーヒー飲むのに、自分のカップだけ軽くすすいで使った。
などなど。
で、まー、イライラは感じておけばすぐに消失するので、気を取り直して今ここに在ることにして、自分が洗うんだけどね。
けど、反応的なイラっとは、また同じ状況でやってくる。
感じても、完全に消え去るわけでもなく、やってくる。
ってことは、気づいていないことがあるわけです、私の中に。
そういう状況の時にイラっとするしか選択肢がないんだもんね。
(あとは、お櫃に米粒がたくさん付いたまま放置されてるのとかにもイラっとするwww)
私も「病」に侵されて、機能不全に陥ってるわけですw
どんな病かというと、思考と一つになってしまうという病です。
思考(マインド、観念、信念、感情、欲望、その他想念なども含めた)と自己同一化してしまうという、とてもありふれた病気。
多分、それが「普通」で「一般的」すぎるから、誰もそれを「病」だと理解していない類のものです。
私自身は、その病に気づいてから15年以上経つけど、まだ完治しないwww
でも、今日、読み直した冒頭の一節のおかげで、また少し「病」から解放されました。
そうか、相手には選択肢があると思い込んでたんだ、私!!!
と、目からうろこが落ちましたw
相手は病に侵されている、、、その事実をありのままに観たら、怒りは湧きようがありません。
さらに、それがわかると、自分への攻撃性もなくなります。
やっぱり嫌だったわけですよ、「イラっとする自分」が。
でもね、
「自分は病に侵されてる、少なくともイラっとした瞬間は。。。だからそれ以外の選択肢がなかったんだ。」
って受け容れられたら、その瞬間にイラっとした自分についてもすぐに手放せて、目の前の事態に対処するだけの状態に戻れます。
イラっとする自分が許せなかったのは、他の選択肢があったと信じていたからなんだなって、腑に落ちた。
頭では知ってる気になっても、無自覚に執着し、その考えと同一化しちゃってるから、いつまでも反応が変わらなかった。
あぁ、もうこれでシンクの状態や、お櫃の状態によって私が害されることがなくなるんだわ〜!!w
ちなみに、引用した部分は”「選択すること」の意味”という章から。
その章の冒頭部にある、大事なところも引用しておきまーす。
ほんとうの意味で「選択する」ためには、意識の活動、それも高いレベルの意識の活動が要求されます。高次の意識活動ぬきでは、わたしたちは、ほんとうにはなにも選択していないのです。「いまに在る」ことによって、思考の反応パターンを自分から切りはなすことができるようになり、ほんとうの意味の「選択」が、可能になります。
ほんとうの意味で「選択」していない人は、「無意識に」生きています。パターン化した思考が、その人の感情、行動を決めているからです。
痛みや機能不全の人間関係を、自分から選択する人はいません。それなのに、それが起こってしまうのは、過去を溶かせるほど十分に「いま」に在らず、暗闇を照らせるほど、意識の光をはなっていないからです。完全に「ここ」に在ないからです。まだ、きちんと、目を覚ましていないからです。
超シンプルなさとり方 エックハルト トールp185より引用
この本、かつて何年も前に読んだ時よりもズンズン染み込んできて、良書だなぁ、、、と感激しています。
で、こんなことを思ったので、Facebookに投稿したの。
「裁判官」にはならずに、ただただ「知る人」として内と外を認識し、すでにそうであるものを受容れていくこと。
外の世界の情勢や内にある想念や感情や、、、ありとあらゆるものに気づきながら、すでにそうであるものは構わず放っておく。
分析して裁いたりしない。ただ観てありのままを知ること。
それ以上でもそれ以下でもない。
こんなにシンプルなことなのに、身につけて身に染みこませるのにだいぶかかったなぁ。
ま、まだ観る人、知る人じゃなくなることもあるけど、それもただ気づいて過ぎ去らせていくだけ。
分析して裁いて裁判官になったとしても、それに気づいて構わずにいる。
今のところ、薄っすらと雲がかかった感じが残っているけど、それを行動することで誤魔化して青空のふりをしていた頃よりも進歩したよなと。
今ここから目を背けて、未来を思い、結果を求め、何かになろうとすることをやめる。
今ここから目を背けずに、あるものをただ観て知るだけ。
それがこんなに尊いことだと思い出せてよかったな。
前回のサイレントリトリート後、4ヶ月経って、かなり変容が進んだなと感じています。
一番大きな変化は、「取り組まないことに取り組んで、ほったらかして生きる。」が身についてきたことかなと。
この言葉は、kan.さんの「問題は解決するな」にある一節だけど、これまで相当取り組んできて、その取り組みによって苦しかったのが前回のサイレントリトリートだったから、、、w
11月に予定している2回目のサイレントリトリート、取り組まないことに取り組めるのかどうか、、、楽しみです。
そういうわけで、超シンプルなさとり方 エックハルト トールめちゃくちゃ良書ですので、読んでなければ是非。読んだ人も再読を。
そのうち、これをネタに読書会やりたいな。。。
とりあえず、これまでやってきた「問題は解決するな」の読書会に続き、新シリーズは始めることにしました。
これはこれですごく面白いし、本質的なので、是非ご参加ください💕
【NEW★超少人数マニアック読書会】「時空を超えて生きる―潜象界と現象界をつなぐ 」by Kan. ファシリテーター ひろ子&PADOMA
[…] 前回の記事でも紹介したけど、そのムーブメントが続いています。 […]