ごきげんよう、探求者の片岡ひろ子です。
似非スピリチュアルの蔓延る浮世とは一線を画した本質をお届けして参ります。
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お友達が今朝こんな記事をシェアしてくれいました。
あなたが自分の【誰でもなさ】を受け容れた瞬間、それが奇蹟だ。
osho
禅のマスター、盤珪(ばんけい)は、たまたま自分の庭で
庭仕事をしていた。ひとりの求道者がやってきて盤珪にたずねた。「庭師、マスターはどこにいる?」
盤珪は笑って言った。
「あの扉--あそこからなかに入るとマスターがいる」
そこで男は入っていって、
内で肘かけ椅子に坐っている盤珪、---
---外で庭師だったその男に出会った。求道者は言った。
「からかっているのか?その椅子から下りろ!
神聖を汚すことだぞ!お前はマスターに敬意を
払っていないではないか!」盤珪は椅子から下り、床に坐って言った。
「もう椅子にマスターはいないだろう
--私がマスターだからだ」偉大なマスターが、
それほどにも普通でありうるということが、
その男にはむずかしすぎて分からなかった。彼は立ち去った ……そして逃した。
ある日、盤珪が自分の弟子たちに静かに教えを説いていると、
別の宗派から来た僧に話を遮られた。その宗派は奇蹟の力を
信じていた。その僧は、自分の宗教の創始者は筆を手に河岸に立ち、
対岸にいる助手が手にしている紙きれに聖者の名前を
書くことができると自慢した。そして彼はたずねた。
「あなたはどのような奇蹟を行うことができるのか?」
盤珪は答えた。
「ひとつだけだ。腹が減ったら食べ、喉が掲いたら飲む」
唯一の奇蹟、不可能な奇蹟は、ただ普通であることだ。
マインドの望みは並外れたものになることだ。
エゴは認められることを渇望する。あなたが自分の【誰でもなさ】を受け容れた瞬間(とき)、
あなたが他の誰とも同じように普通でいられる瞬間、
あなたがどんな証明も求めていない瞬間、
あなたがあたかも自分は存在していないかのように存在しうる瞬間--それが奇蹟だ。
力はけっしてスピリチュアルではない。
奇蹟を行う人びとはどのような意味においてもスピリチュアルではない。
宗教の名のもとに魔術を広めているだけだ。それは非常に危険だ。あなたのマインドは言う。
「このどこが奇蹟なのか?
腹が減ったら食べて、
眠くなったら眠る、とは?」だが、盤珪はほんとうのことを言った。
あなたが空腹を感じると、マインドは言う。「いや、私は断食をしているのだ」
空腹を感じていないと、腹が満たされていると、
マインドは首う。「食べつづけるのだ。この食べ物はとてもおいしい」
あなたのマインドが邪魔をする。
盤桂は言っている。
「私は自然とともに流れる。
私の存在がなにを感じようとも、
私はそれをする。
それを操っている断片的なマインドはない」私もひとつだけ奇蹟を知っている。
自然が自らのコースをとるに任せること、それを許すことだ。
これを読んでいたら、なんだか泣けてしまって。。。
何故かって、このこともやっと最近本当に腑に落ちたから、
ありがたいなぁ、、、って想いが溢れてしまってね。
頭ではわかってた。知ってた。
(出たー!おなじみのやつッ!w)
サイキックな能力が必ずしもスピリチュアルなことと関係ないってことはわかっていたのです、
頭のレベルではね。
でも、それが実感として心底理解できたのはつい最近。
長い間、頭の中では能力を求める必要はないって言い聞かせながら、
心のどこかではそれに憧れている自分がいて、
そういう能力がある人にある種の妬みがあったんだよね、
気づかないようにしていたけど。
人格の自覚としては、憧れとも思ってなかったな。
どっちかというと批判とか、蔑むような感じに近かった。
いや、とうの昔には憧れている自分に気づいて、言語化もしたことあった。
で、それを手放したつもりになっていたから、
妬みとしてアンチズムが発生してたのね。
長い間、言い聞かせてきた。
『マスターたちは言っている、シッディーはスピリチュアリティと関係ないって、、、』って。
なのに、心の奥底では求めていたし、知りたかったんだね、キャラクターのひろ子氏は。
どうしてもスピリチュアリティと奇跡的な体験というのが切り離せずにいて、
垂直に触れるっていうのはなんかの奇跡のような体験なんだって思い込んでいたのです。
でも、でも、そんなんじゃなかった。
もしかすると、普通じゃない奇跡的な体験もあるのかもしれないけど、
本当に大事なことはすごくありふれた、いつもとさほど変わらない感覚で、
奇跡的なことを追い求めている人だと見逃してしまうような些細なことなんだなって
ジョージと数日前に話したところだった。
些細というか、すごく、繊細なものというか。
神様が降臨したり、光が降り注いだりはしないwww
そんなぶっ飛び体験ではないのだけれども、
絶対的な安心感に包まれて、
微笑むしかないみたいな、、、そんな感じ。
そんな感じに触れるときは、
能力なんてあってもなくてもどっちでもいいと心の底から思えて、
嫉妬や妬みも勝手に溶けていく。
「削ぎ落とそう」と努力する必要なんてどこにもない。
光が降り注ぐようなこともあるのかもしれないけど、
私の場合、そういういわゆる奇跡体験が先だったら、
そこに囚われて、エゴって教祖みたいになって、
探求がスタックしていたと思う。
だから、いつも守られてるなぁって感謝してきた。
変な能力が先に開花しなくってよかったと。。。
いずれはそういうのも体験していくんだろうけど、
それはきっとたいして大事なことじゃない。
計算が速いかどうかとたいして変わらないことなんだって、
やっと、やっと理解しました、マスター!
それだからさ、市井に普通にいるんだっていう話にも納得した。
垂直に触れるとか、ハートが開くっていうのは、
行をやるとかなんとかそういうことで齎されるものじゃないって。
とはいえ、まだまだわからないことだらけ。
だけど、それでも一番大事なベースは見つけられた気がします。
本当の私は特別でもなんでもなくて、しかも特別を目指す必要もなく、
そこに在るだけでいいんだってこと。
まずは本当にそれだけ。
うわー、言葉にすると、すごくスピっぽい界隈で言われてる、
フツーのフレーズだね、「在るだけでいい」って。
私もそんなこと言ってきた。
でも、それも頭だけの理解だったんだなぁ。。。と今更。
頭だけの理解も大事だったけどね。
そのプロセスを抜きにはここに来なかったと思う、
私の場合は。
とはいえ、プロセスがこれを起こしたというよりも、
起こることが起こっただけなんだともわかる。
自分の努力で手にしたものじゃないというか。
なるようになっただけ。
努力で勝ち取ったという感覚はキャラクターのもの。
「本当のわたし」からすると、
それは最初からそこに在ったという感じ。
それがベースなんだから、まー当たり前なんだけども。
この感覚は、個人的にはステレオグラムで立体視できた時とか、
サイゼリアの間違い探しで10個とも見つけた時とか、
そんな感じなのです。
一度見えちゃうと、もはや、それを見えなくするのは逆に大変な感じのモノ。
知らなかった自分には戻れない。
逆にそれを見えなくさせているのは、
キャラクターの観念や欲や感情なのだけどもね。
一旦身につけてしまうと、
その観念や欲や感情をなかったことにするのはとても難しい。
なのに、垂直に触れると、それらがパッと解けるのですよ、
不思議なことに。
きっとこの原理だな。
図を見てるときには、地は見えない。
地を見てるときには、図が見えない。
今の私はこれを行き来している段階な気がする。
キャラクターひろ子氏をやってる時には、垂直から離れるし、
垂直に触れている間は、キャラクターの感覚はなりを潜めるから。
でも、そのうち、その行き来もなくなって境界が解ける時が来るのでしょう。
ま、わからんけどな⭐️
道が続いていくことは間違いないのでしょう。
とにかく、、、ここでお伝えしたかったのは、
特別なことを追い求めていると、目の前にある大切な、
本当の奇跡を見逃すよってことで。
そこにあるのに気付かない。
だまし絵みたいな感じかな。
ルビンの壺もそうだね。
壺にとらわれると、
横顔が見えなくなる。
なんかそんな感じです。
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