本質へ還る旅をサポートする 受容・削ぎ落とし・サレンダー・エゴに関するスペシャリストで波動調整®創始伝道者片岡ひろ子です。
在り方で世界が変わり、人生の波乗りマスターに近づくための情報をお届けします⭐️
無料コンテンツはこちらからご利用いただけます💕
ハートの奥にある望みに従って行動していくと、縁や機会がどんどん繋がってきて、望みが現実化していく。
望みというのは、宇宙があなたを通して表現したがっていることがらだから、現実化することになっている。
それを拒否抵抗するエゴに気付き手放していくこと。
それを「起こることをゆるす」って表現しています。
行動を起こす時に大事なのは、どこか遠くを眺めるよりも、今ここの一歩を出すこと。
結果が出るかどうかなんて気にせず一歩を踏み出す。
踏み出したところからしか見えない景色があるから、二歩目がどうなるかは、一歩目を出した後にしかわからないのです。
この「起こることを許す」というのは、無自覚に生きることの真逆。
無自覚に生きてたら、望みになんて気付かないまま流されて機械人間のまま終わっちゃう。
エゴが望みの現実化を邪魔してることにも当然気付かず、エゴを自分だと思い込んでしまう。
自己認識する力は意識的に育てなければならないのです。
その自己認識力上げるために必要なことをトークライブ、講座、セミナー、ワークショップ、個人セッションでお伝えしてますので、
下界に反応するだけの機械人間のまま人生終えたくなかったらご活用ください💕
あ、そうそう、それで、「起こることを許す」をエゴの都合良く使うと、たんなる受け容れたテイになっちゃうのですよ。
受け容れたのと、
受け容れたテイなのとはまるで別。
やれることやりきって、そこで初めて手が放せるのであって、やれることやってもいないのに、受け容れたフリしても奥では納得してないんだから、意味ないのです。
等身大を誤魔化して受け容れたフリは何のためにしてるのかな?
そこをよく見ると、恐れとか不安とかいろいろ出てくるから、それらと共に在ることが大事。
見て見ぬ振りしてもそれらは消えてなくなったりしないから、ちゃんと見つけてあげないと成仏しないのです。
望みを現実化させるために必要な行動を恐れや不安から遠ざけてしまうのは、エゴの習性です。
怖さや不安を持ったままいたいのがエゴです。
望みに従って行動を起こすときに浮き上がってくる隠れていた怖さや不安は、本質を生きるために手放していかないといけないからこそ浮き上がるんですよ。
かつせスピ界を席巻した某宇宙人がよく言ってました。
「ワクワクすることをしろ!」って。
それはね、ワクワクすることをしていたら、ちゃんと恐れや不安、不要な観念といったものが浮き上がってくるからなんです。
それらをよく見て、認めて、受け容れて、手放していけるかどうか?
(実際には受け容れると自ずと手から放れる)
それこそが削ぎ落としの肝です。
変わろうとしなくても、余計なことを手放せばいいだけ。
拒否、抵抗、しがみつき、執着、、、
そのてのものを握りしめていることに気付いてやめる。
それだけで変容は起き自然な自分が花開くのです。
とにもかくにも内側にある湧き上がってくる望みに従うこと、それが大切です。
その望みに従う自然な自分をありのままに生きる道を大切にするか、
自然な自分を犠牲にしてでも外側から押し付けられてくるものを優先するか、その二極化が起きてるのが今です。
ある種、内と外とのせめぎ合い。
そう見えるけど、でも実は外に見えているものは内側のものだから、内に従えば外側は消えてしまうんです。
自然な自分に従って生きることで、外からの圧力はどんどん消失していきます。
そこに気付けるかどうかが非常に重要。
「外からのそそのかし=悪魔」は幻想で、内に従えば消えちゃうんですよ。
笑っちゃうくらいすごく単純なことなんだけど、みんな外の世界はあると信じていて、その外からの圧力に屈してしまうんだよね…
幻に屈してしまうのは、エゴが恐れと不安を握っていたいからです。
恐れと不安を手放したらエゴも消えてしまうからね。
こうした謎解きは、誰かに教わったわけじゃなく、自分で道を歩んで見つけてきたものだから、私にとっての真理です。
みなさんも自分の真理を自分で見つけていけるよう、オリジナルの道を歩んでいってください。
エゴが邪魔するときは、削ぎ落としのスペシャリストがサポートします⭐️
ハートの本当の開き方を知りたい人、エゴが気になる人etc.
6/17 Zoom 【天行健・宇宙の法則シリーズ】片岡ひろ子30年の軌跡&奇跡<進化と変容> ひろ子&PADOMA トークライブ
https://resast.jp/events/574748
個人セッションの詳細はこちらからどうぞ。
[…] ・望みに従うという意識的な生き方がエゴの欲をそぎ落とす […]
[…] 流されて生きることと、起ることを許して生きるのは別だと先日も書いたところ。 […]