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パートナーシップを通して自分を好きになる必要すらないことを知る

メルマガからの転載です。

 

アイキャッチの画像は我が家にお迎えしたマシマ氏の作品「間」です。

私と夫とを表しているように感じています。

 


 

ごきげんよう、片岡ひろ子です。

 

年末ですねー☆

 

高校1年の時のクラスメートと集ったり、大学の時の親友と飲んだり、自分マスター道場の忘年会だったり、、、

 

普段は板橋に引きこもりがちですが、人と会う機会がドドーンと増えています。

 

道場の忘年会では2次会でカラオケに行き6時間も歌った挙句、午前3時から我が家に移動してそこから飲み直しましたw

 

これは1次会

 

解散したのは朝の7時半。。。w

 

今日はその時、飲みながら道場生と色々話した内容からお届けしようと思います。

 

 

先にFacebookに投稿しちゃったので、そこから引用しますね。

 

まず先に1年前の投稿から。

 

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男と女は別の生き物。

だから、近づいて触れ合う価値があるのですな。

お互いを解ってるなら近づく必要がないもん。

解らないからこそ、近づいて触れ合って、少しでも解り合えたと感じることが喜べるのですよ。

解ってる前提でなく、解らない前提だから面白いのです。

 

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それをシェアする形でこちらを書き添えました。

 

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【自分を好きになる必要すらない】

 

近付く前は似たところ探しをし、いざ近づいてみると違うところが気になってしょうがない、、、

 

けれど、その違いを受け入れ合うことでお互いを進化させていくのがパートナーシップ。

 

それはちょっと大変なこと。

 

好きなところだけ見ていればいいというのとは違うから。

 

一緒に住んでお互いをさらけ出し合うと本当にいろんなものを受け容れ合わないとやっていられなくなる。

 

先日のカラオケで「あなたといるときの私が一番好き」的な歌詞があったんだけど、それはきっと恋愛中のことだろうな、、、と。

 

結婚したらそうはいかない。

 

自分の中の一番嫌な面が見えて来るのが結婚。相手の嫌なところが見えて来るのもしかり。

 

そこから逃げずに向かい合って、つまり嫌いな自分が出て来るのを相手のせいにせずに向き合って、そんな自分を味わい、受け容れる課程こそ自分を愛する課程でもある。

 

受け容れるってのは好きになることではないので、嫌いな自分や嫌いな相手がいるんだって認め、そこに執着せずに放っておけるようになればいい。

 

それぞれ変わる必要もない。もちろん変わってもいい。

 

ありのまま、ナチュラルな自分を受け容れ合うってそういうことだと思うのです。

 

私がジョージといる時にこそ嫌いな自分も出て来るのは、ジョージがそれを受け容れてくれてるから安心して自分自身でいられるから。

 

そして、その嫌いな自分を無理に好きになる必要もなく、そのまま嫌いでいて構わない。

 

自分を好きになるってよくいうけど、自分を愛するのなら自分を嫌いなままの自分でいてもいいんだよ。好きになる必要すらない。

 

愛ってそのくらい懐が深いものですよ。

 

そういうわけなので、私は自分を愛してるけど、嫌いなところもたくさんあります。

 

そして同様に、ジョージを愛してるけど、嫌いなところはたくさんあるんです。

 

自分の弱さや嫌いなところを隠すために不倫したりしないの、私たちは。

 

もちろん、不倫するのが悪いって話ではなくて、、、目の前の人と100%向き合えないのは辛いよね。

 

不倫に限らず、家庭内別居だったり、セックスレスだったりさ。

 

今はまだそのようにしかいられなくても、そうではないパートナーシップの形があって、それはお互いがコミットすればそのようになります。

 

それもまー、コミットするというDOより先に自分のBEから溢れて来ることだと思うから、なんでも思い通りになるわけじゃないけどね。

 

あきるほど辛い体験を重ねて、それに飽きたら次のフェイズに入るかもしれません。

 

追記:

子供や親、兄弟との関係も一緒かも。

 

子供のことを愛しているけど、嫌いな側面はもちろんあります。

 

だって別の人間だもん、全てが私の好み通りなわけないじゃん?

 

親もね。

 

そして、みんな親から無条件に愛してもらいたかったんだよね。

 

でも、全ての親が弱さや恐れと100%向かい合えるはずもなくて、その期待にはこたえられなかった。

 

その100%向かい合える関係を結べるのが伴侶だし、ベターハーフ(あえてソウルメイトとかは言わないw)。

 

でも、、、あれだな、、自己以外の他者全部がベターハーフなんだけどね。

 

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折しも7日に開催したウェブ座談会でのテーマも男女関係とかパートナーシップみたいなことが中心でした。

 

【過去分動画販売】バーチャルひろ子の部屋 vol.5 20171207

 

今回お届けした内容は、、、

・男女関係

・相手のせい?自分の選択?

・被害者と加害者

・ビジョンは必ず現実化している

・病気や予防接種など

・死なないように生きることをやめる

などなど

 

DVの話題なども取り上げています。

 

興味のある方は是非ご覧ください。

 

次回の開催はこちらです☆

The true natures ミーティング@バーチャルひろ子の部屋 vol.6

 

カメラとマイクをオフしての参加も歓迎です☆

 

 

 

今夜はコンサルさせてもらっている所沢ビールの新しいスタッフとの顔合わせ。

 

ついにウェブでも購入できるようになりましたので、年末年始の贈答やご自宅用に是非!

味については私が保証します!!

 

所沢ビールのフラッグシップビールビッチェズブリューご購入はこちらから

 

 

ではでは。

 

 

<イベント、講座、セミナーなど>

【動画講座】本当の自分を生きるための脱引き寄せ、削ぎ落としのススメ

【動画講座】本物の創造と本質の自分

The true natures ミーティング@バーチャルひろ子の部屋 vol.6

【片岡ひろ子】全ての問題を消滅させる「意識」の変え方【動画講座】

【波動調整】本質を生きるとは?私たちは何者でどこへ向かうのか?片岡ひろ子【動画講座】

【過去分動画販売】バーチャルひろ子の部屋 vol.1 20170802

【過去分動画販売】バーチャルひろ子の部屋 vol.3 20171004

【過去分動画販売】バーチャルひろ子の部屋 vol.4 20171109

【過去分動画販売】バーチャルひろ子の部屋 vol.5 20171207

【本質の自分を生きる】自分マスター道場

 

マインドが創り出すマトリックス世界

Facebookをしていて何がいいかというと、過去の思い出が上がってくるところなんですよね。

つながっている人に何か伝えるという手段としても使わなくはないけれど、個人的には自分自身のための日記のようなものであるのがfacebookです。

ブログも本来日記みたいなものだったはずだけど、今や個人の持てる発信ツールになりましたね。

私がかつて17年前にテレビチャンピオンになるきっかけだったのは「食べ歩き日記」という、今でいう食べログの走りみたいなのを個人で運営していたことでしたっけ。

あ、で、これ、2年前の自分の投稿。

 

 

こうして上がってくる自分の投稿に対して、今の自分が色々思うのです。

3Dの映画、あのメガネ外したら飛び出さないもんねーw
 
 
とかw
 
 
 
 
このそれぞれの色メガネをより厚くしていくゲームをしてる部類の人と、メガネを極力外す方向に向かうゲームをしている人と二極化してのかなと思います。
 
 
メガネをどんどん厚くしていくとないものも見えるようになるし、本当ではない化け物が現れたりもする。
 
 
すると、恐れや不安も生まれ出る。架空の何かで大喜びもできるかもね。
 
 
スピリチュアルを名乗っているようなものでも、大方はこの架空の何かを創り出しているのが主流派だそうです。
 
byうりゅう先生
 
 
 
 
実はこれはとてもとても重大なことなのですが、気づいて語っている人に会ったことはありません、うりゅう先生以外。
 
 
 
先生がこないだこの話をしてくれてよかった。
 
 
私が波動調整講座で伝え続けてきたことだからね。
 
 
 
 
 
で、何がどう重要かというと、、、、
 
 
 
私たちは観ることで世界を変えうる力を有しています。
 
 
ということは、リーディングやチャネリング、サイコメトリーという名の下において、実はその人が自分の観たいようにものを観て、その世界を創り上げてしまっている可能性があるということです。
 
 
そこにあるものをありのままに観るのではなく、自分の色眼鏡=観念=思い込みを通して観ることにより、現実を捻じ曲げて一種のマトリックスを創り出してしまう。
 
 
 
これをしないようにモノをただ観るというのはとても難しくて、自分の観ている世界を疑って、疑って、疑って、ちょっと信じて、でも疑って、自分の持つ観念に気づきながら、それを鏡のように磨いてきた人でないと「ただ観る」ということは難しいのです。
 
 
 
私自身、まだまだたくさんの色眼鏡をかけているだろうと思います。
 
 
その色眼鏡のせいで、あたかも現実を創造したかのようなマトリックス世界を創り出すことができてしまうのが私たちなのです。
 
 
 
それを現実創造!引き寄せ!!と喜んでいてもいいのだけど、エゴの願望を現実化することで得られるものは本来の豊かさや幸せとは別物です。
 
 
そうした、何かで自分を満たすという衝動は尽きることがなく、いつまでも、どこまでも何かを手に入れ続けようとするのが関の山です。
 
 
本質を生きるとは、そういう可能性があることを知りながらも、何かで満たされなくとも、すでに自分が豊かで幸せで満たされている存在だと知ることです。
 
 
 

大切なのは、自分が魔境を創り出してしまえる存在であることを知って常に見張っていることです。

言ってみれば、自分でゲームのルールを変えて、そのゲームの中でよりたくさんのアイテムを集めて喜んでいる状態といいましょうか。。。

それはそれで3次元の楽しみ方ではありますが、その次元しか知らないと、結局は恐れや不安に苛まれ、いつも何か満たされない本当の何かが欠如した感覚の中で生きることは避けられないでしょう。

スピリチュアルを標榜している色々の主流派は、マインドが創るマトリックスの中でキャラクターを演じる舞台を引き寄せをしているということです。

 

それを悪いとは言ってませんよ。くれぐれもお間違いなく。

 

でも、それとは別の世界があります。ありのままのね。

 

ありのままをただ観ると現れる世界。

 

そこは本当にそれそのものがパラダイスです。何もなくても全てがあるの。

 

と言って、パラダイスという言葉に対するイメージもまた人によって違うので、私がイメージするパラダイスとは違うものを想起することも多いのですけれどね。

簡単に言うと苦しみ(恐れや不安)がない世界とでもいいましょうか。。。。

 

とここまで書いて、理解できる人がどのくらいいるかわかりませんが、必要な人に届きますように。

 

より詳しく知りたい人は波動調整講座にどうぞ。

使命に生きるとか才能を活かすとか

ごきげんよう、カタリスト☆片岡ひろ子です。

 

今晩は、チキンのクリームシチュー(というか、スープかなぁ)とタラのムニエルバルサミコソース。

美味しい美味しいと家族が喜んで食べてくれる。

私にとっては美味しい料理を作ることは苦にはならず、得意なことなのに、「これは私がしたいことではない」と思っていた。

 

私の中に長いこと、それこそ40年くらいずーっとあった観念。

それは「やりたいことをやりたい!」だった。

つまり、「やりたいことがやれていない」という【無念】の中にいるんだと勘違いしていたのだった。無自覚に。。。

そういう思いがあることを認め、それにまつわるいろんなことを解いていくと、私はいつでも「やりたいことができる」んだということが腑に落ちて、今ここで豊かさの全てを享受できることへの絶対的な確信が生まれた。

すると、不思議なもので、「私がやりたいこと」は、人に喜んでもらえるように自分の才能を活かすことだった。

それは「自分が好きなことをする」のとはちょっと違う。

もちろん、料理は好きなのだけど、「私はやりたいことがあるから!」と、なんだかよくわかってもいない「やりたいこと」や「やるべきこと」を追いかけて料理なんてそっちのけだった。

 

大して得意でもなく、好きでもないのに料理を引き受けてくれたのは夫ジョージ。3人目を生んだ3年ほど前から私はほとんど料理をしなくなっていた。

 

しかしながら、「私はすでに満たされている」という絶対的な安心感の中では、時間は実にゆったり流れ、全ての行為を慈しむ余裕が生まれる。

すると、

「え?こんなことでいいの?これでそんなに喜んでくれるの?」

というぽかんとしてしまうような気づきがやってくる。

自分からすると全く特別ではなく、ごく普通の、当たり前にできること。

 

こんなんでいいの?

これでいいんだ…

というなんとも不思議な感覚が腑に落ちる。

 

きっかけは夫が体調を崩し、3〜4日寝込んだことから。その期間に私の中では次から次へと気づきが生まれていった。

これもまた、サポートなのだろうとありがたく思う。

 

 

ウェルスダイナミクスのプラクティショナーをしていた頃、6つの内的価値というレクチャーで、情熱と才能と知識、人脈、人格、目的というのを扱っていたのだけれど、まさに才能というのがその部分で、

 

「才能とは、自分には当たり前に出来てしまう天賦の能力のことで、自分ではそれが才能は思いもよらないので、自分の才能に気づくのは難しい」

 

そう語っていたのは当の私だったりして…。

そう、頭では理解していた。

得意なこと、自分にとって当たり前にできること、それが才能だと。

でも、「自分は満たされている」ということが本当に腑に落ちるまでは、「やりたいことをやりたいのー!」と小さな駄々っ子のように自分の才能を認めることがないのかもしれない。

少なくとも私はそうだった。

好きなことをしているつもりで無い物ねだりだった。

お役目の放棄。

才能の持ち腐れ。

私がキッチンに立ち、家族のために料理するということがどれだけ世界に豊かさのバイブレーションを広げていることか。。。

改めてそのことをありがたく思うし、人に喜んでもらうことがこんなに幸せなことなんだって、これまでも感じては来たけれど、そのレベルの深さに驚く毎日を送っている。

自分が満たされて初めて人に与えられる。

そのフレーズもありきたりだし、私も散々使ってきた上に、出来ていると思い込んでいたもの。

でも、そうでもなかった。

私の中では、満たされていない、「好きなことさせてよ!」と叫んでいる子供が暴れていて、それを見ないふりで生きてきたようだったことを理解した。

それこそ、才能を発揮し人に与えられるような「理想の自分」を演じることが板につきすぎて、本当の本当の「そのままの自分」を眺めることができなくなっていたのだった。

「そのままの自分」を認めることが「ありのままの自分」に近づく

とは片岡ひろ子の口癖だったw。

そこから微妙に逃げつつ、それでも逃げださずに来たことで、今ここの、満たされた喜びと幸せを味わうことができるようになったのだろう。

 

間違ってはいけないのは、やりたいことをやったから満たされたわけではないということ。

 

これが餓鬼畜生の想念の元だったりする。

 

満たされるために、もっと、もっとと求めてしまう。

 

餓鬼畜生になるもんかと思っていた私自身が餓鬼畜生を隠し持っていたのだった。

 

子供をガキと呼ぶのは、餓鬼だからなのかぁ。。。

 

やっと理解した。

 

満たされるのに必要なのは、満たされていないという妄想、幻想を見破ること

 

なぜなら、私たちはデフォルトで満たされているので、満たされていないというのは単なる誤解にすぎないのだ。

 

自分にまとわりついていた餓鬼畜生を払うのにかなりキツイ暗夜行路だったように思うが、夜明けの前には闇が一層暗くなるというのは本当なんだという体験ができた。

 

そういうわけで、仕事に関してもまた「私が当たり前にできて、人の役に立てる得意な分野」というのが明確になりつつあり、自分でも驚いている。

え?それを仕事に?そんなの仕事になるの?

というような、自分にとっては何の苦労もなくできる当たり前のこと。それが世界を豊かにし、他人に分け与えられる一番の才能なんだ。

そんなことにニーズがあるなんて、自分自身は気付かないもので、頑張って努力して何かを成し遂げようと、何か好きなものを見つけて仕事にしようともがいてしまう人が多いのかもしれない。

そういうわけで、料理は私の仕事。

心を込めて作ることで料理に魔法をかけられるから、どんなものも美味しくできる。

もしも、それを仕事にする日が来たら食べに来てね☆

でも、今のところはその路線ではなく。。。

こんなサポートが必要な人はどうぞ私を使ってやってくれたら嬉しいな。

 

使命とは、「自分のしたいことをする」だけでなく、「与えられた才能を他人(という自分)のために使うこと」なのだと思い直す今日この頃。

 

自分のしたいことをする、それそのものは使命というかベースなんだろうと思う。

 

でも、「したいことができない!」と密かに思ったままの非力な子供の自分が成仏されていないと、「したいことをするぞー!!」というキャンペーンになってしまうのだな。

 

今だからわかる、私の精神構造。。。

 

 

これからは、本当の意味でもっと大人な生き方を実践します。

 

つまり、満たされて、幸せで、他人をも喜ばす才能を分け与えられる人として。